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お仕置きの部屋 ~お尻叩きの世界

              嘘の許容範囲2


日常生活で人と関わるにあたっての必要な嘘でも、罪の意識を感じてしまう子、そこまで偏っていなくても、そういうことを少しでも考えたことがある子は、どうしてそこまで偏った思考になってしまったのか、それは真面目でいい子なキーさんに見られがちですが、その背景には何が隠されているんでしょうか、というところの続きですね。

そういう思考に偏り過ぎている子もいれば、少なからずそういった事を考えてしまう事もあるという子もいますし、度合いは違えど真面目でいい子を演じてきた子はそのような傾向があるのではないかと感じます。

優しさのための嘘でも
気遣いのための嘘でも
空気を読んだ嘘でも
心で思っていることと違うことをいったりしても

どんな理由があったとしても”嘘”をついてしまったというくくりで考えてしまい、他人を騙しているという罪悪感を感じ、偽りの自分を演じていることに虚しさを感じたり、心が苦しくなってしまいます。
本当の自分を吐き出したい、本当の気持ちを伝えたい、そういう気持ちが心にあるのは事実です。

それじゃそれを言えるのかといえば、それは100%NOです。
なんでかというと、それがマナーでもあり、礼儀でもあり、なによりコミュニケーションには必要な事だということは誰よりも理解しているからです。

もっというとその根底には、自分勝手になりたいわけでもないし、場の空気を乱したいわけでもない、相手を傷つけたいわけでもない、そう思っているので言えないのは当然のことです。
じゃあなんで・・・・、とここから先は堂々巡りとなって、永遠と続くループとなっていってしまいますよね・・・。

本当の心はどこにあるのか、偽りの自分を演じたくないのも本心、しかし他人に迷惑をかけることは絶対にしたくないのも本心、そうなると、出口のない迷路のように答えがみえてこないのですが、少し角度を変えてみると隠れている本質がみえてくるのではないでしょうか。

本心はどっちなのか、本当はどう考えているのか、その本心は

自分を偽りたくないというのが実は本心で、それに付随して
本当の自分をわかってほしい
自分勝手でもいいから全てをさらけだしたい
わがままをきいてほしい
そんな私でも認められたい、そういう自分も含めて愛してほしい、それでも見捨てない無償の愛がほしい
というのが根底にあるんだと思います。

しかし、それを周りの人たちに向けてしまいたいと思うのは錯覚で、その向ける相手は実は母親に対してなのでしょう。
母親に対してといっても今現在の母親ではなく、幼少期の時の母親にです。
幼少期に満たされなかった部分を、無意識に周囲の人に向けてしまっている、そういう思考になってしまっていると考えると、二つの相反する考えは矛盾ではなくなり、ストンと心に落ちていくような感覚になるのではないでしょうか。

どうしてそういう思考になってしまったかというと、それは幼少期に我慢してきたことが原因だと思います。
理由は様々で人によって違いますが、一般的には小さい頃にわがままをいったり、自分のしたいことをアピールするのは当たり前の行為で、それが健全な子供の心なのですが、その心を抑圧してしまったからでしょう。
理由としては

様々な環境から、両親に心配や迷惑をかけたくないと強く感じて自分を出さなくなってしまう
親の言動から、わがままをいったり、期待を裏切ったら見捨てられると思ってしまい、親のいいなりになってしまう
自分の下に妹や弟がいるから母親を譲らなければならない思い、甘えられないのは当然と思ってしまう
家族をバラバラにさせないようにと幼いながらに強く感じて、親の機嫌を取る為に必死に自分を偽ってしまう
幼少期に感情的に怒られ続け、そうならないようにと心を抑圧して我慢するようになってしまう

このような様々な理由やきっかけで良い子を演じてしまうことが多いでしょう、そうではなく、根っからの性格からそのように行動してしまう子も実際にはいます。
もちろん性格的な面もあり、同じ環境でもそうならない子はいます。
なのでこういう状況にない人には理解できないかもしれませんし、逆にこういう思いをした本人なら理解はできるでしょう。

本当はわがままを言ったり、自分の意見を言ったり、意思表示をしてありのままの自分をさらけ出したかった。
でもそうできなかった幼少期の満たされない思いは、記憶には残っていなくても心の中では消えないものです。
自分を偽って、本当の自分とは違う良い子を演じてること、それが母親や周囲に嘘をついているという認識になってしまいます。
でもそのように育ってしまうのは当然のことのように思います。

本来これは立派な気遣いの嘘(ついていい嘘)であって、子どもは幼いながらも葛藤して、自分や家族を守るために必死に気を遣っているものです。
しかし幼少期に自分を偽ること(嘘)が日常になっていたら、「本当の自分を偽っている」「周りを騙している」と思うのは当然のことでしょうね。
なぜかというと、我々は大人だから嘘は必要だと冷静に判断できるからであって、幼少期の子どもはその判断能力が欠けているからです。

特に子供の頃は嘘はいけないことだと教え込まれ、嘘つきは泥棒の始まりとか、地獄に行くよとか、狼少年の話とか、そうやって嘘はいけないと純粋に育てられます。
しかしまだ心も知能も成長初期なので”いい嘘”だとしてもひとくくりの”嘘”と認識してしまっても不思議ではありません。
だからこそ気遣いの嘘だとしても大人になった今でも罪悪感が残ってしまうのでしょう。

通常は子供の頃は嘘は悪いことと教えられていても、それから幼稚園(保育園)小学校、中学校、高校、大学、社会人と上がるごとに、気遣いのためには、そして他人と仲良くしていくには、つかなければならない嘘というものは必要だと学んでいきます。
気遣いの嘘や自分の思いと違うことを発言するのは、悪い嘘とは全く違う絶対必要枠であることは無意識にわかっていくことで、それが健全な成長過程でもあるんですね。
それが幼少期に抑圧された環境で過ごすと、良い嘘だとしてもマイナスの形で認識をしてしまうのはよくわかる気がします。

補足でいうと、正義として認識していたものが実は建前だったとか、大人の汚い世界を目の当たりにしてショックを受けたりとか、ある程度は世の中の嫌な部分も含めて受け入れなければ普通の精神状態での生活はできませんよね。
それを幼少期にぶち込んでしまったら間違った認識になるでしょうし、正常に認識をするには長い学生生活を経て、社会人になってと、長い年月をかけて少しずつ力をつけ身につけていかなければなりません。
それをいきなり幼少期にぶち込んでしまうのは、体力のない幼児に50㎏の荷物を乗っけるようなものです、当然つぶれてしまいますよね。

まぁだからこそ幼少期の教えを未だに信じているような真面目な不器用な子はとても生きづらい世の中なのでしょう。
でもそういう心は必要ですし、私はとってもとってもそういう人を尊敬をしています。
そして私を含めた臨機応変に心を対応できるような器用な人は、自分の心を守るためにそういった純粋さをどこかに置いていってしまったんでしょうね・・・。

真面目で不器用な子はそれができない、尊敬に値しますが、本人たちは生きるのが辛いという変な世の中です。
ま、話が少しずれましたが、気遣いの嘘は絶対に必要なので、罪悪感を感じてしまう人はそういう認識に変えていきましょう。
気遣いの嘘という人間関係には絶対に必要な技を幼少期に取得していたというだけの話です、こういった背景を振り返ってみて考え方を変えていきましょう。
罪悪感を抱える必要はありませんよ^^

ちなみに普通の人は気遣いの嘘については、罪悪感を抱えるどころか、嘘という認識はないし、大げさにいうなら相手に気を遣えた自分の広い心に満足しちゃう人までいますしね(笑)
認識が全く違うものなんです。

ただ、良い嘘、悪い嘘の基準も判断も範囲もそこは微妙に違うもので、そこでトラブルもあることも事実です。
そこは人それぞれの価値観や思想によって変わりますので、ここで書いた話は「一般的な範囲での良い嘘」ということですからね^^;



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