お仕置き、お尻叩き、お説教、お尻ペン、お仕置き依頼
               
お仕置きの部屋 ~お尻叩きの世界

                   私自身の事


私はこのような活動を通じていろいろな方と接し、いろいろなお話をしてきました。
その中で私は、お説教はもちろんのこと、相手に対しいろいろな選択肢を与えてあげたり、物事の捉え方や見方を変えるアドバイスをしたり、何が幸せな事なのかを考えさせたり、客観的な広い視野で説明したりと、とにかく相手の抱えている焦燥を少しでも軽くし、前を向けるようにさせてあげたいという気持ちで真剣に向き合っているんですね。

それで、このブログやメールのやり取り、そしてサイトの中で、私は私の価値観や方向性を持って活動しているので、これらを見ている方は私についてどういう印象を持っているのかなぁと、たまに考えてみたりします。

人にお説教をし、悪いことを注意したり罰したりしているのだから、それこそ善人であると思われているのかなって思うんです。
プレイとか遊びとかではなく、人に対して真剣にお説教をしてお尻叩きのお仕置きをするのですから、それこそ品行方正でなければその資格はないと思う人が大半なのではないかと私は感じるんですね。
それはそうですよね、自分ができていないことを他人に注意をするほど滑稽なものはないし、説得力の微塵もないんですから。

で、私はたまに、このブログやメールのやり取りなどを読み返してみることがあるんです。
そうすると、「この人立派なこと言ってるなぁ、さぞかし立派な振る舞いをしているんだろうなぁ」なんて客観視して思ったりすることもあるんですね(笑)
じゃあ、実際はどうなのか、というお話をちょっとしてみようかなって思います。

正直言って私の過去は裏も表もあっていろいろな経験をしてきました。
裏というのは悪い部分で、学生の時も悪いこともしたことがあるし、成人になってでも悪いことを考えたり、したりしたことがありました。
きっとその内容を聞いたら人によっては許せない、腹立たしい、ふざけるな、と思うだろうと思います。
実際私は遠い過去に戻り、心から謝りたいと思う人も何人かいるし、そのことで人生をやり直したいという気持ちもあります。
でもそれは私自身がその罪から逃れるためのもので、恐らく相手の為に謝るというよりも自分が楽になりたいから謝って許してもらいたいという自分本位な考えから来ているのかもしれないと思ったりもします。
だったらその罪悪感を一生背負って後悔して生きていくのが私自身の罪の償い方なのかもしれないなって思うんです。
実際当人に謝ったとしても気が済むのは私だけかもしれません、相手は大人なので言葉では許してくれるだろうからです。

私の場合、好奇心旺盛でいろいろな世界を全て見てみたいというところがあって、それでいろいろなことを経験しいろいろな人と出会い、そこには良い人も悪い人もいました。
良い人でも悪い人でも私はその心に興味があり、なんで良いことをするのか、なんで悪いことをするのかということをいつも追及していて、それが今のいろいろな人の気持ちになって考えられるという基礎になっているんじゃないかなとも感じます。

性的な部分もそうですね、過去にちょっと触れたこともありますし、過去に書いた記事がグロすぎるために後になって削除した記事もありましたが(汗)
私は性的にも好奇心旺盛なところがあって、何でか惹きつけるものを感じ、若いころにSMの世界に入り込んだんですね。
好奇心だけは人一倍ありますから一通り全て(身体改造は除く)のことは経験してきたのではないかと思います。
あまりにも追求しすぎた結果なのか、私のSM観というのは肉体的な快楽(セックス)ではなく、精神的快楽の追求だったことに気が付いたんです。
肉体的快楽(セックス)は精神的観点からみると気持ちを盛り上げるための一つの行為にすぎないんです。
私はその精神的な部分が満たされる方が肉体的快楽よりも遥かに上の方にあり、恐らくそれは究極に追求していけば誰しも必ずたどり着くものなのではないかと思っています。

それで、そこに気が付いた瞬間に肉体的快楽を追求する人たちであふれているSMの世界には私の求めているものはないなと考えるようになったんです。
もちろん肉体的快楽である性欲に関してはSMの世界をはけ口としていますが、精神的なものを追求することについてはSMの世界では表現できないと悟ったんです。
そこからSMよりは健全であるスパの世界に入り込んだのですが、最初の私はやはりキーさんはMの卵だくらいにしか思っていなかったんですね。
M女よりは性的なことに対しては奥手なのでそれで満足していましたが、なかなか私の支配下にすることができず葛藤していて、そんな時に出会ったキーさんの純粋さに、キーはMではないと悟ったんですね。
私は当初、キーはMであると思っていたのですが、そのあたりから、キーでMの人はもちろんたくさんいますが、キーでMじゃない人も存在していることを知ったんですね。

「だから支配できなかったんだ」
「そういう純粋な子供みたいな心を持った大人がいるのか」
と、カルチャーショックを受け、そこからスパの世界に対して支配という概念は消えました。
なにか私が失ってしまった大事なものを埋めてくれるような気がして、スパのお仕置きの世界に入り込んでいって、それは現在も続いています。

それで私は、精神的な部分のやり取りができるこのお仕置きの世界に入り込みたいと思い、本当にシンプルな、本来のお仕置きに限りなく近い世界を作り上げようと思って今に至るんです。
だから私が今していることはスパと呼ばれている、勝手に作り上げられた世界のお仕置きとは根本のところで違うのではないかと思っています。
とはいっても皆さんに理解してもらうためにスパ用語なんかはちゃっかりと借用してしまってますけどね(笑)

こんな道をたどってきているので私は性的なものをお仕置きに持ち込むことは許せないんですね。
スパは日常であり、SMなど性欲的なものは非日常という認識だからです。
私は私のしているこの一連のお仕置き行為はとても神聖で人間の心を正常に保つには必要なものではないかと思っています。
だから性的なものをこのスパのお仕置きに持ち込んでこの神聖な行為を汚したくないんですね。
そういう理由だから私が持ち込むことも一切ないんです、性欲を満たすのであればスパではなくSMで吐き出せばいいだけですからね。

例えば、普通の夫婦が子供の前ではセックスはしませんよね、しかし夜になれば子供に隠れてセックスをします。
それもある意味、日常と非日常です。
非日常とは子供に胸を張って見せられない、性が絡む後ろめたい行為、もっといえば子供に隠れて淫らにあえいでいる行為です。

一方、大人が子供にお仕置きをするのは日常であり、そのときに性欲なんてあるわけがありませんよね。
私はそれと全く同じだからお仕置き時には性欲が微塵もわかないんです。
つまり日常がスパのお仕置き、非日常の部分で性欲を満たしているからです。
ちょっと赤裸々にお話しちゃいましたね^^;

また、それに関連してもう一つ踏み込んだお話をします。
私が精神的に切り替えている証拠として、私はお仕置き中にあそこが勃ったことがありません。
決してインポではありませんよ、元気です(笑)
それは親が子供にお仕置きをするのにあそこが勃つことはあり得ないですよね(笑)
それと同じで、私は私のところに来る子たちを子供としか見ていないということの表れなのではないかなって思います。

まぁ、こんなんで良い事も悪い事も、ノーマルもアブノーマルも体験し、その行く先でいろいろな人と出会い、私の精神的な構造ができあがってきたんじゃないかなって感じます。
そういう一連の事柄が、「どんなことを聞いたとしても引かないし動じない」という根拠の一つであると思います。
人間は悪いことをしますが、どんなに悪人でも確実に純粋な部分や善の部分があるというのを私は知っているんです。

話を戻しますが、
だから私にお説教の資格があるのかと問われたらそれはないのかもしれません。
でもこれだけは言えると思うんです。
悪いことを経験したからこそ、正しい人の気持ちも悪い人の気持ちも理解できる。
悪いことを経験したからこそ、もう二度と悪い事はしたくないと心から思える。
悪いことを正当化するつもりはありませんが、そういう経験があったからこそ分かることもあるんです。

また、心理学やマニュアルでは説明できない微妙な心の部分は、良いも悪いもいろいろな経験や様々な人間関係があったからこそ分かる部分があると思うんです。
本の知識では人の心の奥底まではわかりません、あくまで表向きの心しかわかりません。
でも私自身は、心理学やマニュアル本では解明できないようなデリケートな部分も対話によって分かり合えるような気がしてます。
それはこれまでの経験や人間関係があってこそ身についたものでもあるんです。

過去は消すことは出来ませんが、過去の解釈は変えることができると思うんです。
それはこれからの生き方や姿勢であり、これまでのことがあったからこそ今の私がいるということなのです。
私の一番好きな言葉で大事にしているものがあるのですが、それは

「これからがこれまでを決める」

という言葉です。
これまでどんな過ちを犯してしまっても、どんなに悪いことをしてしまっても、その解釈は、これからの生き方で変えることができると思うんですね。
これまでの罪悪や罪をマイナスのまま抱えて成長せずに終わるか、その経験をプラスにして成長につなげるか、その差で今後の人生は大きく変わるはずだと私は思ってます。
過去は変えることは出来ませんが、それを糧にこれからが良くなれば過去の解釈は変えることができる、つまりそれが、これまでを決めるということなんだと思います。

これは私のところに来る子たちにも共通することで何もいつまでもウジウジしていることはないんです。
お尻叩きのお仕置きを受けて償い、前向きにこれからをよくすれば、これまでのことがどういうことだったのかが決まるんです。
辛い思いをしたからこそ得られるものが大きいんです、それを大きなプラスにするか後ろ向きにマイナスにしてしまうかでその人の人生は違うものになります。
起こってしまったことは変えることは出来ませんが、それはこれからの生き方で良かったんだって変えることができるんです。
それを悪い結果として残すか、良い結果にして成長につなげるかはその人自身の問題で、私はその手助けをしているに過ぎないんですね。


当然のことながら私も、現在は悪いことはきっぱりと卒業して、心身ともに品行方正でいますし(笑)、その生き方をずっと続けることによってこれまでの過去の解釈が決まるんだと思って全うに生きているんですよ^^



              戻る          Top