お仕置き、お尻叩き、お説教、お尻ペン、お仕置き依頼
               
お仕置きの部屋 ~お尻叩きの世界

                  お仕置きへの執着


いきなりですが、そもそも私は過去精神的な心のやりとりを求めSMの世界を経験してきた人間です。
まぁSMの世界といったら大げさなのですが、単に人間の本質や素の部分を求めるためにSM行為を好んでいたというのが正しいでしょうか。
相手の嫌がる顔や喜ぶ顔、必死な顔や頑張っている顔が見たい、そのような人間の本質的なところを追求したく、仮面をとった素の部分である精神的な心の動きがみたかったんです。
最終的にたどり着いたのは精神的なSMであって快楽的なSMではなかったんですけどね。

お仕置きに憧れを持つ子達の多くもスパの世界に入る前に自分はMなんだと感じることが多くてSMの体験をしてみるけど違和感が出てしまうことって少なからずありますよね。
あとからネットでお仕置きの世界を知り、安心して涙がでてしまうみたいなことってよくあります。

私もそれと同じなのかなって前からよく感じていたんですよね。
さすがにお仕置きの世界は昔から知っていたのですけどね、知っていたけどもキーさんと向き合うことはしませんでした。
キーさんの存在を否定していたというか俗に言うS目線でキーさんを見ていたんですね。
しかしそれが何人かのディシプリン派のキーさんと出会い、性的ではなく、純粋で健全に精神的なところを求めている人もいるんだなって分かって、その健全さは私が求めていたことでもあったので向き合い始めたんです。

キーさんは自分はMだと思い込み、悩み苦しむ人が多いんですよね。
しかしお仕置きの世界を知ったときに「自分だけではなかった」と安心し、嬉しくて気持ちが開放されるんです。

エッチなことやSMではなくて、日常の一人の人間として、親身に叱られることで愛情を感じる
いつもそばで見守られていることで愛情を感じる
ダメなところはダメと誘導してくれることで愛情を感じる
という気持ちがあって、それが自分の”甘える行為”だということを無意識に心で考えてしまっているんですね。
まぁそれがディシプリン派であり、子供に返りたいと願うキーさんの根源だと私は感じます。

私の場合それに似ているんだなって、似ているというよりそのままなのかなって感じます。
結局今お仕置きの世界にたどり着いた私がいるのは”SM”を追求した結果だったんだなって思います。
SMをしっかりと経験してきたから今の自分があるし、経験していなければ今の自分は居なかっただろうと思います。

MはSに責められることに喜びを感じ性欲を満たそうと求めてしまいます。
嫌がることをしているはずがいつの間にか喜ぶことをしてあげているということになり、それは当たり前のことなんですが、行き過ぎちゃうと冷めてしまう自分がいました。
だから求める事の逆をしたくなったりして、そうすると自分の欲も果たせないし何をしても途中で飽きてしまったりしていました。
結局はSとMでの関係性では絶対に表現ができないことを望んでいたんですよね。
快楽としてお仕置きを望む人には、お仕置きをしたくないという気持ちがどんどん膨らんできたんです。
そこを追求していった結果、究極的にはそこらのノーマルな人をお仕置きしたいという思いが強くなっていたんですよね(汗)
そしたら本気で素の部分が見れるだろうし、求めているものも健全だろうし。
でもそんなこと出来る訳もないし葛藤していました。

昔の私はキーも所詮お仕置きを求めている部分では同じだからMと同等に考えていたところがありました。
「私はMではなく根っからのキーです」なんて言葉はただのくだらないプライドにしか捉えていませんでした。
まぁ私が最初に知り合ったキーさん達がそうだったので結局は変態扱いされるのが嫌だという気持ちだけでキーを名乗っているのかなって考えてしまっていました。
でも今考えるとSである私に興味を持つ自称キーはキーではなくMだったんでしょうけど(笑)
あ、そうそう私はキーであってMである人もいるし、キーであってMでない人もいると思っています。
結局はMという部分は性の部分である性癖であってキーは性の部分ではなく性格なんですよね。
だから両立は当たり前だし、女性は基本受身なので殆どがM性を持っていると思っていますから、Mとキーをどちらか選択しなければならないという認識は全くないんです。


話を戻します。

そういう毎日でしたが、本当の意味での「根っからのキーさん」と出会ってからそれは変わりました。
「私が求めていたものはこれだ」って感動を覚えました。
それこそ私が思っていたノーマルの人をお仕置きしたいという願望そのものです。
しかもその理由には正当性があり、相手に罪の意識がある以上、それを解放させるためにお仕置きが必要で、お仕置きの最中は必死で嫌がり、我慢して素の人間が見れることに感動を覚えました。
それまでは加虐として叩いていたのが自然と愛情で叩けるようになったのも事実です。

ただ、Sの面が出てしまっているというか、、、まぁそれは良い面だと思うのですが・・・。
それはお仕置きには妥協がないってことなんです(汗)
いくら必死にごめんなさいをしても気持ちがこもっていなかったらお仕置きは終わらないし、泣こうが叫ぼうが絶対してはいけないことを繰り返したら、罪の償いという意味合いや罰ということで厳しく叩けるんです。
この子のためにという思いが後押しをしているんですけどね、あれだけ必死にごめんなさいをしているのに叩ける私も我ながら・・・、と思ってしまいます(笑)

お仕置きでは、限界を超えたとしても、相手がそれで怒ったとしても切れたとしても私は妥協はしません。
大好きだからそこまでするんです、それで理解できないと言って嫌われたとしてもそれでいいと私は考えています。
そのうち私の気持ちを理解してくれるだろうし、私の元から去ってしまってもそういう気持ちは必ずあるはずだからそれでいいんですね。
離れるのは相手の選択だし、それで幸せになるのなら私は喜んで自由にさせます。
決して見捨てるのではなく、いつまでも忘れはしませんけどね。
そしていつか気まずい思いをしてまでも戻ってくるのなら暖かく迎え入れますし、そういう子も可愛く感じてしまうんですね。
本当に私の方向性は親と子供って関係性で無償の愛なんですよ。
私は愛情を持って接しているので、いつか必ず相手は理解してくれる、そういう気持ちが根底にあるからこういう気持ちになっているんだと思います。


話がそれましたが(汗)
キーさんはお仕置きを求めてしまうものですが、私が好きなキーさんはディシプリン派というのはもちろんですが、お仕置きを求めないキーさんなんですよね。
そんなキーさんは居ないのかもしれませんけど(笑)
実はお仕置きを求めてしまっているってキーさん自身もよく分からないでしょうが、実際にはお尻叩きを求めていないキーさんがディシプリン派だと私は思っています。
難しいのですが、お尻叩きを求めているけどお尻叩きは求めていないんです(笑)
なんとなく分かるように説明してみましょう。

お仕置きを求めるっていうのは単なるお尻を叩かれる行為を求めているわけではないんですよね。
叱られることで愛情を感じるんです、どうでもいい人を叱るなんてしませんからね、そういう意味で愛情を感じてしまうんだと思います。
ま、叱る前提に愛情をもって親身になっていることは言うまでもありませんけどね。

それを求めてしまっている以上、罰としてのお尻ペンも受けなくてはならないんですね。
自分が愛情を求めるにはそれなりのリスクも必要なんです(汗)
だからお尻ペンの最中は本当に嫌だしやめて欲しいことなはずなんです。
この部分は非常に微妙でスパ的なのかSM的なのか、そこは心の持ち用で左右される部分でもあります。
究極にはどちらでもいいのですが、このような自覚は持っていたほうが私はいいと思っています。
まぁ、精神的な問題であってそこに目をつぶるっていうのもありですから、とりあえず欲求を解消することが先決です。

で、相手がお尻叩きを求めていなように考えていたとしたら、そこが私が一番求めていたことでもあったノーマルの人を叩くという究極の行為につながるんです。
しかも正当性があることなので虐待でもなんでもなくお互い納得がいく?お尻ペンなんです。

実はキーさんがお仕置きを求めるのにはお尻ペンを求めているのとはちょっとだけ意味合いが違う場合もあると思うんです。
お尻を叩く行為も愛情がないと出来ませんよね、「私のために叩いてくれている」という思いがあるからそこに愛情が伝わってくるんです。
愛情をもってお尻ペンをすれば相手にも伝わります、ディシプリン派のキーさんの一部は痛みや快楽でお尻ペンを求めているのではなくて、自分はこの人から愛されているという気持ちが深層心理に根付いているからお尻ペンを無意識に求めてしまっていると思うんです。
無意識だから叩かれている最中は本当に嫌だけど、痛みを忘れた数日後にはまた求めてしまったり、他の人のお仕置き話に「萌え〜」ってなったりしてしまうんです(笑)
すなわち愛情や自分が存在している証を求めているのであってお尻叩きはその手段や過程として最適なだけなんですよね。
ディシプリン派のキーさんもカーさんも見失っていることですが、メインは愛情をどう伝えるかってことなんですね、その愛情伝達の手段として心の対話であったりとかアフターフォローであったりとかを求めるのでしょう。
だからお仕置き行為はとても理にかなっていると思います。

理にかなっているというのは精神的な部分の心の動かし方です。
お尻ペンも最初の段階は耐えられますが、だんだんと痛くなってきますよね。
いつになったら終わるのかもわからないし謝っても許してくれないときってあるはずです。
苦しいし、痛いし、こんなことなら悪さしなきゃよかったと後悔しますよね。
本気でやめて欲しいのにやめてくれない気持ちはよくわかっているつもりですよ(笑)
だからこそ次の段階が効いてくるんです。

最後の仕上げはお尻ペンが終わった瞬間に訪れます。
それまで地獄のような罰を受けたところから解放されるんですね。
その開放感のギャップがとんでもないんです。
地獄から一気に天国ですから。
厳しい口調から優しい口調にかわり、甘えることも許されなかったのが甘えることができる。
怖かった人が急に優しくなって自分の成長のために叱ったんだとしっかりとお話してくれる。
そのお話によって憎まれたり嫌いでお仕置きをしたのではないって再確認できるんですよね。
ここで今までで最高の愛情を感じられるんです。

先ほどお仕置きの流れは理にかなっていると書きましたが、お説教、お尻叩き、お仕置き後、
このそれぞれに愛情がこもっており、この一連の流れが”お仕置き”であってお尻叩き単体をお仕置きと捉えてはいけないと私は思います。

お仕置きを求めている、お尻叩きを求めているというのは誤解される表現であって、実際は愛情を求めている場合もあるんです。
叱られることで愛情を感じる人たちはこの流れが一番しっくりくるのだと思います。
ただ一般的に単に「愛情が欲しい」と求めても誰にも伝わりませんよね。
だからお仕置きをしてください的な方向になってしまうんでしょう。

私のお仕置きへの執着はこういうことが多くを占めています、スパのカーからSMのSになる人はたくさん聞いてきています、それはそれでいいことでしょう、結局はそれを求めていたのだしSMの世界はとてつもなく広いし深いですから。

でも私の場合はSMの世界から究極を求めてお仕置きの世界にはいりこんだのです。
私にとって日常だったSMがスパのお仕置きの世界に変わったということです。
でも非日常としては性欲のはけ口としてSMは利用しています。
非日常で性欲は満たしているので、それを日常であるスパの世界に持ち込む理由がないのです。
そしてもし持ち込んでしまったらせっかく見つけた私の求めていたものが全て崩れることになるのでそこは別物として捉えています。
性欲を満たしたいのならスパの時ではなく、他でSMをすればいいだけですからね^^

結局は何か実体のないものを求めて求めて彷徨い続けて、そしてやっと自分の居場所を見つけたわけですから。
もともとSMも性的なことを求めてしていたわけではなく精神的なことを求めてしていたことだし、人間の心や本質を追求したくて突き進んできたことなので結局は今の自分をずっと求めていたんだなぁと感じています。

最後に、スパにはいろいろな嗜好や種類があります、私は親と子供の関係性のようなコンセプトで考えていますのでこの記事はそういう趣旨でお読みください。
このように捉えていないカーさんもキーさんもたくさんいるということは間違いありません。
これは私の世界だけの考え方なので違和感が出てしまう方はそれはそれでいいんですよ。






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